【いだてん】モデルの紹介 金栗四三、田畑政治 他【東京オリムピック噺大河ドラマ 中村勘九郎・阿部サダヲW主演】

2019年の大河ドラマは、宮藤官九郎オリジナル脚本の「いだてん~東京オリムピック噺」です。

「いだてん」は、1912年のオリンピック初参加から、1964年の「オリンピック」開催までの激動の52年間を、歴史に翻弄されたスポーツマンたちの姿を通して描く「東京&オリンピック」の物語。

2020年の東京オリンピックを目前に控えた2019年の大河ドラマにふさわしい題材ですね。

ここでは、「いだてん~東京オリムピック噺」のモデルとなった実在の人物を紹介していきます。

 

「いだてん」のあらすじ

 

“スポーツ維新”「ストックホルム大会」篇 1909(明治42)年~

1909年、東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎の元に、“オリンピック”の招待状が届き、初の“予選会”が開かれる。短距離走では三島弥彦が、マラソンでは金栗四三が優勝、嘉納団長とともに“世界” に挑むことに。

金栗は熊本の“田舎っ子”で高等師範の学生、一方の三島は“子爵家”の超エリート。好対照な2人が繰り広げる友情物語。

1912年「ストックホルム大会」。三島は外国人選手の体格にどぎもを抜かれ、予選敗退。金栗は26キロ地点で日射病により失神の大惨敗。 三島は「短距離では欧米人に一生勝てない」と宣言。競技を諦め銀行マンとして金融界のトップになっていく。一方の金栗は一睡もせず失敗の原因を考え、日誌に書き込む。「四年後を見てくれ」。

帰国した金栗は春野スヤと結婚。温かくもユーモラスな夫婦関係に支えられ、再び壮絶な練習に挑む。だが、悲劇が襲う。第1次大戦で「ベルリン大会」の中止が決まる。絶頂期で夢を奪われた金栗を、嘉納が救う。「夢は後進に託せばいい」。金栗は学校の先生になり、箱根駅伝を創設。多くの弟子を育て、“スポーツ” は日本全国に広がっていく。

 

“オリンピックの光と影”「ベルリン大会」篇 1930(昭和5)年~

1930年、スポーツ大国へと成長した日本は、嘉納を中心に“東京オリンピック”招致運動を始める。田畑政治が嘉納と行動を共にする。だが、ローマと競合、イタリア首相・ムッソリーニに直談判するも状況は厳しい。さらにIOC会長を日本へ招待するが、2・26 事件が発生。東京には戒厳令がしかれ、招致は最大の危機を迎える。

1936年「ベルリン大会」。開会式前日のIOC総会で、東京はからくも勝利。選手団長の田畑は感動に涙した。ヒトラーによる壮大な大会が幕を開け、「前畑頑張れ!」の実況に日本中が熱狂。だが翌年、日中戦争が勃発。軍国化する日本に対し、各国からボイコット運動が起こる。嘉納はカイロ総会で力説。「アジアの平和の実現は、日本の最高の決意である」。執念のスピーチに東京開催が再度承認される。だが、帰路についた嘉納は船中で病死。程なく“東京オリンピック” 返上が発表される。

 

 

“復興、平和への願い”「東京大会」篇 ~1964(昭和39)年

1959年、田畑らの活躍で、ついに「東京オリンピック」の開催が決定する。だが、それは国を挙げての狂想曲の始まりであった。東 龍太郎都知事の号令で“東京大改造”が始まった。慢性化する渋滞。進まない住居立ち退き。東京砂漠と言われた水不足。選手村の場所すら決まらない。相次ぐ危機が、組織委員会事務総長の田畑を襲う。委員会が置かれた“赤坂離宮”のドタバタ劇は終わらない。果たして、ドラマの行方は?

 

志ん生の人生

1959年5月、東京。

いつもどおり、タクシーで寄席に向かう古今亭志ん生は大渋滞に巻き込まれていた。東京でオリンピックが開催される見通しとなり、どこもかしこも工事だらけ。
「猫も杓子しゃくしもオリンピックで浮かれていやがる…」
オリンピックにまったく興味がない志ん生は、いたく不機嫌だった。

ある日、志ん生のもとに、不思議な青年・五りんが、恋人・知恵とともに、弟子入り志願にやってくる。五りんと話をするうちに、脳裏をある出来事がよぎる。その夜の高座で、突然、噺はなしはじめた落語が「東京オリムピック噺」。

志ん生は自らの人生を紐解ひもといていく――。

ときは、1909年。若かりし日の志ん生・美濃部 孝蔵は、遊び仲間の人力車夫・清さんが、ひとりの紳士を乗せてフランス大使館へ向かうところに出くわす。この人物こそ、金栗四三の恩師であり、のちに“日本スポーツの父”と呼ばれる嘉納治五郎だった。

1912年、ストックホルム。嘉納の奮闘によって、金栗四三がマラソンで、三島弥彦が陸上短距離で、日本初のオリンピック出場を果たす。だが、2人とも大惨敗。金栗は悔しさを胸に、後進の育成に情熱を注ぎ、日本スポーツ発展の礎になっていく。

そのころ、孝蔵は「飲む、打つ、買う」の三道楽にすべてを使い果たす放蕩ほうとうぶり。落語のほうもさっぱり芽が出ず、改名を重ねること17回。借金取りから逃れるため引っ越しも十数回繰り返すどん底の生活を送っていた。生真面目な金栗とでたらめな孝蔵。関東大震災、二・二六事件、東京大空襲…激しく移りゆく東京の街角で、2人の人生が交差していく。

時は流れて、1964年。“昭和の大名人”となった志ん生の「オリムピック噺」は一段と熱を帯びていた。
舞台袖から、その様子をじっと見守る弟子の五りん。「オリンピック」を縁に、重なり合っていく志ん生と金栗と五りんの人生…。10月10日。田畑政治らの活躍によって開かれた「東京オリンピック」開会式で、ドラマはクライマックスを迎える。

 

「いだてん」の登場人物のモデル

 

登場人物 キャスト モデル
金栗四三 中村勘九郎 金栗四三
田畑政治 阿部サダヲ 田畑政治
古今亭志ん生 ビートたけし 5代目古今亭志ん生
春野スヤ 綾瀬はるか 春野スヤ
金栗実次 中村獅童 金栗実次
金栗信彦 田口トモロヲ 金栗信彦
金栗シエ 宮崎美子 金栗シエ
池部幾江 大竹しのぶ 池部幾江
三島弥彦 生田斗真 三島弥彦
三島弥太郎 小澤征悦 三島弥太郎
三島和歌子 白石加代子 三島和歌子
吉岡信敬 満島真之介 吉岡信敬
中沢臨川 近藤公園 中沢臨川
押川春浪 武井壮 押川春浪
野口源三郎 永山絢斗 野口源三郎
美川秀信 勝地涼 美川秀信
大森兵蔵 竹野内豊 大森兵蔵
大森安仁子 シャーロット・ケイト・フォックス 大森安仁子
黒坂辛作 ピエール瀧 黒坂辛作
永井道明 杉本哲太 永井道明
嘉納治五郎 役所広司 嘉納治五郎
可児徳 古舘寛治 可児徳
美濃部りん 池波志乃 美濃部りん
今松 荒川良々 2代目古今亭圓菊
橘家圓喬 松尾スズキ 4代目橘家圓喬
大隈重信 平泉成 大隈重信
内田公使 井上肇 内田公使

 

「いだてん」実在のモデル詳細

 

☆金栗四三

明治24年(1891年)8月20日、金栗は熊本県玉名郡春富村(現・和水町)で、男4人、女4人の8人兄弟の7番目として生まれる。川で魚を釣り、田んぼで泥鰌(どじょう)をすくい、のびのびと育つ。小学生の頃には、冬は「藁草履(わらぞうり)」、夏は裸足で小学校へ通っていた。元が虚弱体質だったことで、運動に自信がなく、片道6キロ、往復12キロの道のりを毎日走り続けたという。『「ハーハ−」と呼吸すると苦しいけれど、吸うとき2回、吐くとき2回とリズムをとると、楽になる』ということを発見した四三はいざ走り出すと誰よりも早く、学友たちは誰も彼に追いつけない。

小学校を卒業した四三は地区内で初めて旧制玉名中学へ入学する。四三は生真面目な努力家で、特待生になるほど成績優秀だったが、スポーツ万能というわけではなく、体操や剣道は苦手だった。また、食べ物の好き嫌いについて叱られたことがきっかけで、慣れない食べ物や嫌いな食事も我慢するよう心がけるようになり、後の海外遠征では苦労しなかった。

中学卒業後、海軍兵学校を目指すが、結膜炎のせいで身体検査に引っかかって不合格に。そこで四三は中国大陸への留学を視野に入れ、大陸留学生の資格を得るため、金栗は「受験に慣れておこう」と東京高等師範学校(現・筑波大学)も受け合格した。いよいよ留学だと意気込んだところで、「師範学校で立派な教師を目指したらどうだ」と兄に諭され、明治43年(1910年)、東京高等師範学校へ入学した。

東京高等師範学校では、毎年春と秋、長距離走大会が行われる。入学したばかりの四三は春は25位だったが、秋は一気に3位へと飛躍した。一年目では快挙とも言えるもので、校長から表彰される。この時の校長こそ、柔道界の伝説であり、日本の近代スポーツ界を牽引した、嘉納治五郎だった。

明治44年(1911年)、四三は徒歩部(後の陸上部)へ入部。そこで四三は人より二倍練習することを自らに課し、早朝から練習に励む。その結果、春の長距離走で見事優勝を果たした。その年の10月、第5回オリンピックストックホルム大会出場を賭けた国内予選の25マイルマラソンに参加する。

明治44年(1911年)11月19日、予選当日は、あいにく小雨まじりの悪天候で、容赦なく吹き付ける風が体温を奪っていった。しかし、四三は当時の世界記録を27分も縮めて優勝した。(※当時のマラソンは「大会ごとに距離が違う」ということがあった)

明治45年(1912年)早春、金栗は嘉納治五郎から呼び出され、五輪出場を打診されるが、一度断る。しかし、嘉納の説得により出場を決めた。が、ここでお金の問題が浮上する。ストックホルムまでの長い遠征費、つまり渡航費および5ヶ月にも及ぶ滞在費は自費だったのだ。悩んだ四三は実家に手紙を出す。兄は二つ返事で援助すると言った。さらには息子が長距離走に挑むことを反対していた母に加え、郷里の人々までもが彼を激励し、援助してくれた。

五輪へ向けて、練習はもちろん、合間の時間に礼服を新調したり、洋食店に通って西洋料理のテーブルマナーを学んだり、さらには英語も習わなければいけなかった。嘉納治五郎の盟友で、ストックホルム五輪の日本選手団監督となる大森兵蔵のアメリカ出身で帰化した妻・安仁子が英語を教えた。

全17日間の旅程を終え、四三たちはようやくストックホルムへ到着する。ここで入場プラカードの国名表記について意見が別れる。嘉納や大森は「JAPAN」だと言うが、四三は「日本」だと言って聞かず、間を取って「NIPPON」と表記した。(※以降の大会は「JAPAN」と表記され、「NIPPON」はこの大会のみ)

7月14日、ついにマラソン競技当日。いいスタートを切った四三だったが、26キロほどを過ぎたところで、熱中症になる。意識がもうろうとした金栗は、ペトレという農家の庭に迷い込み、介抱を受ける。次々に選手が迷い込んできて、ペトレの庭は野戦病院状態だった。こうして、四三は「消えた日本人の謎」と化し、亡くなって亡霊になったとか、お茶とお菓子をごちそうになっていたとか、二人の美女に導かれて消えてしまったとか、都市伝説となった。

このレースは過酷さを極め、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手は、競技翌日に急死しているほどだった。四年後の再起を誓う四三は、敗因を徹底的に分析していた。

大正3年(1914年)、東京高等師範学校卒業の年となり、五輪に熱を上げる四三は、異例のことながら、教師への奉職を断り、「研究科」に籍を置くことになる。そして徒歩部に毎朝乗り込むと、盆正月も、雨の日も、雪の日も、練習に励む。しかし、ベルリン五輪は第一次世界大戦の影響により、開催中止となった。

四三は鎌倉にある神奈川師範学校へ赴任する。しかし、日本のスポーツ界を担う人物が鎌倉にいては不便と考えた、嘉納によって独逸協会中学に異動になる。

大正3年(1914年)に開催された、東海道五十三次を走る日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競走」にアンカーとして参加した四三。見事優勝を果たす。この年に春野スヤと見合い結婚している。

大正5年(1916年)には、四三ら三名の陸上選手が、東京箱根間を走る駅伝大会を発案し、これが今に至るまで正月の恒例行事である「箱根駅伝」となる。

大正9年(1920年)4月、ベルギーでアントワープ五輪が開催され、四三は2度目の参加が決定した。海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープを目指す間の環境は以前より格段に良くなっていた。それには四三の陰の努力があった。そして8月22日、マラソンの当日、ストックホルム大会とはうってかわって、鳥肌が立つような寒さだった。30キロ地点を通過するころには、5位にまで浮上したが、突然左足首に痛みが走る。冷たい雨の中、痛みに麻痺したような脚を引きずってゴールしたとき、四三は16位だった。入賞は逃したものの、この大会で四三は「女子にもスポーツ教育が必要だ」と確信した。

大正12年(1923年)、女子スポーツ教育案を練る四三に、嘉納は「東京女子師範はどうか」と言った。赴任先の彼女らが親しんでいたスポーツは、自転車だった。四三は「女子がスポーツをするなど、はしたない」という風潮を気にせず、女子の健康などを考慮した結果、女子にふさわしいスポーツとは、テニスだと思った。

大正13年(1924年)、金栗は三度目の五輪、パリ大会に挑む。マラソン競技の当日は、12年前のストックホルム五輪を思わせるような、暑い日で、またも四三はリタイアしてしまう。4年に一度の大舞台で実力を発揮するためには、まだまだ新たな努力と工夫が必要であると、痛感させられた苦い結果だった。そしてこの大会を最後に、四三は選手としてのキャリアを終える。

昭和5年(1930年)、四三はスポーツ嫌いの校長と対立し、東京女子師範を去り、4人の子供と熊本で過ごす。昭和15年(1940年)の東京五輪大会準備に携わるため再度上京するものの、戦火の拡大により、幻に終わってしまったのだった。

太平洋戦争の傷がようやく癒え始めた昭和21年(1946年)10月20日、第一回全日本毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)が開催される。さらにその翌年には、金栗の名を冠した「第一回金栗賞マラソン」(現・金栗翁マラソン大会)が開催された。かつての韋駄天も、そのときには還暦の手前だった。四三は五輪やボストンマラソンといった国際大会で活躍する日本人選手の育成にあたり、その功績が認められ、昭和30年(1955年)には、スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞した。

昭和42年(1967年)、四三は55年ぶりにストックホルムの地に立つ。実は、四三はストックホルム大会で、記録上は棄権したという意志が伝わっておらず、未だゴールしてない状態だった。四三が少し走り、ゴールした時、マラソンのタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」と発表された。

昭和58年(1983年)、一生涯を走ることに捧げ、「体力、気力、努力」を掲げて生き抜いた大アスリート・金栗四三は92年の生涯のゴールテープを切ったのだった。

 

☆田畑政治

1898年12月1日、静岡県に生まれる。東京帝国大学を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社した。政治経済部長などを務め、1949年(昭和24年)に常務に就任する。その一方で、水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めた。また、1952年のヘルシンキ五輪、1956年のメルボルン五輪では日本選手団・団長も任された。

1939年に日本水泳連盟の理事長に就任し、9年後の1948年には日本水泳連盟会長の座に就いて以来、田畑は東京でのオリンピック開催に力を入れていた。第二次世界大戦からの復興を目指す東京で五輪を行うべく、招致活動の先頭に立って精力的に活動し、1964年東京でのオリンピック開催を勝ち取る。東京五輪開催決定にともなって設立された大会組織委員会の事務総長に田畑が起用され、女子バレーボールを正式種目に追加させる事に成功した。

1959年(昭和34年)、田畑は東京五輪組織委員会の事務総長に就任した。しかし、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対して国際オリンピック委員会(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで、日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれる。この責任を取り、田畑はJOCの会長・津島寿一とともに事務総長を辞任した。

1964年の東京五輪開催以後も日本スポーツ界に大きな影響力を持っていた田畑は、1973年から1977年までJOC(日本オリンピック委員会)の会長を務めた。

 

☆5代目 古今亭志ん生

1890年(明治23年)6月5日生まれ、本名は美濃部孝蔵。明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家で、戦後の東京落語界を代表する落語家の一人と称される。長男は10代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は3代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃さんがおり、この度『いだてん』に池波志乃さんが出演するのは感慨深い。

生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた。子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをしたという。1897年、下谷尋常小學校に入学するが、素行が悪く退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした。

博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けていた頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める。1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロだった。1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進した。

1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生するが、素行の悪さは直らず、様々な門を転々とする。

1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る(1度目は1924年・大正13年)。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名した。1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる。そして、16回目の改名となる5代目古今亭志ん生襲名したのは、1939年(昭和14年)のことだった。

1945年(昭和20年)、慰問芸人として満州へ渡る。1947年(昭和22年)、命からがら満州から帰国すると、ニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。この頃から人形町末廣で余一の日(31日のことで、特別な講演がある日)に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。

1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任し、1963年(昭和38年)まで会長を務める。1961年(昭和36年)暮れ、脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、以前のような芸風は見えず、これを5代目志ん生の「病前」「病後」とも言う。

1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章を受賞した。また、1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章する。

1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となり、同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座となった。

1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。墓所は文京区小日向の還国寺であり、息子の3代目志ん朝も眠っている。

 

☆春野スヤ

金栗四三の妻。ただし、ドラマ『いだてん』と実際の設定が微妙に異なる。

春野スヤは、金栗四三と同じく熊本県玉名郡の出身。スヤは医者の娘であり、金栗四三の叔母の池部幾江の仲立ちでお見合い結婚をした(ドラマでは幼馴染の設定)。以降、オリンピックを目指す夫を支え続ける。結婚式から5日後に金栗四三は、大正5年のベルリン・オリンピックを目指すために単身で東京へ戻ったため、別居生活が続く。

昭和6年に四三は故郷の熊本へ帰ると、熊本のスポーツ振興に尽力したが、一度、四三が知人に梨園の経営を勧められ、その気になった時には、春野スヤは「梨園の経営とは何事です。四三さん、あなたはマラソン一筋に生き抜く事を自分の務めだと言っていたじゃありませんか」と激怒したと言う。

 

☆金栗実次

金栗四三の兄で、金栗家の長男。四三を非常に大切にしていて、反対する父を説得し、四三を玉名中学に進学させた。四三が中学に入学する直前に父が胃癌で亡くなったため、学費などは実次が工面した。

四三は東亜同文書院を第一希望としていたが、腕試しで受けた東京高等師範学校に合格し、実次は東亜同文書院に落ちたら行くところが無いと言い、早々に受かった東京高等師範学校への進学を勧め、四三は言う通りにした。

当時、スポーツは遊びという扱いで、学生の本業はあくまで学問だという風潮があり、実次も例外ではなかった。マラソンに反対する実次にオリンピックに出場するための費用1800円(現在の価値で480万円程度)の援助をダメ元で頼んだ四三だったが、実次は「田畑を売ってでも用意する」と言った。結局、東京高等師範学校の関係者が1500円の募金を集めたため、実次は300円を負担した。以降、四三のオリンピックへの挑戦を応援し続けた。

四三の結婚の際も、婿養子に出すのを嫌がっていたが、スヤを大変気に入り、鶴の一声で交際が始まった。

四三は第一乙種で徴兵を免れたが、これには裏で動いた実次の功績があった。徴兵されればマラソンができないと考えた実次は、陸軍関係者に根回ししていたのだ。

このように、様々な面で四三を支えてきた実次は、昭和5年の夏、急性肺炎で死去した。

 

☆金栗信彦

四三の父。熊本県玉名郡で酒造業を営む名士だったが、虚弱体質で、四三が生まれる4~5年前に農業に転身していた。四三には農業を継がせたいと考えていたが、実次の説得にあい、玉名中学に行かせることにするが、四三が入学する前に胃癌で亡くなってしまう。56歳だった。

 

☆金栗シエ

四三の母。強気な女性で、四三の夜泣きに悩まされながらも、病弱な夫・信彦の代わりに農作業に精を出していた。そのため、子供とあまり遊べず、四三の相手は専ら祖母だったという。信彦の死後は、実次が家督を継いだため、一歩引き、穏やかに暮らした。

 

☆池部幾江

四三の叔母にあたる人物。玉名郡小田村の資産家・池部家に嫁ぎ、お金の苦労はなかったが、夫に先立たれ、子供もなかったため、家の存続で悩む。そして四三を養子に欲しいと申し出た。この時の四三はストックホルム五輪に出場し、地元の英雄だった。しかし実次はこの申し出を断った。それでも幾江は諦めず、頼み込むと、四三がトレーニングのために東京にいてもいいのならと承諾した。養子を承諾すると、四三に一刻も早く結婚し、家督を継いでほしい幾江は、見合いを勧める。その相手が、医者の娘の春野スヤだった。養子になるまでは少し時間が空くが、この間も幾江は四三の支援者として、毎月40円~50円の仕送りをしていたため、四三は働かずしてマラソンに打ち込めた。

四三が熊本に戻ると、あちらこちらから校長にと打診を受けるが、幾江は折角戻ってきた四三を手放さず、働かずマラソンを続けるよう言った。昭和11年、再び上京の要請が来た四三を寂しいながらも応援する幾江だった。しかし、東京オリンピックは返上され、熊本に戻らなければならなかった四三だが、既に子供が東京の学校に通っていたため、東京に残れた。戦況が悪化し、四三が熊本に戻った後も、マラソンに打ち込めるよう計らった人物だった。

 

☆三島弥彦

明治19年2月23日生まれ。父・通庸は「鬼県令」「土木県令」と恐れられる人物で、警視総監も務めたことがある。弥彦が3歳の時に亡くなっている。兄・彌太郎は日本銀行の総裁を務めたこともあり、小説『不如帰(ほととぎす)』のモデルでもある。

弥彦は学習院に初等科から高等科まで通い、陸上・野球・ボート・柔道・水泳・乗馬など多くのスポーツで実力を発揮した。中でも野球るが好きだったようで、学習院を野球の強豪校へと導いた。

明治40年、東京帝国大学法学部に入学した。明治42年に発足した「天狗倶楽部」に、助っ人として参加したのをきっかけに入部する。「天狗倶楽部」はオリンピック予選の準備にも関わっていて、審判を務める。弥彦は試しに走ってみようと思い、走ると、200メートルの2位以外は全て優勝する(100、400、800)。結果、短距離の代表となり、四三と共にオリンピックへ向かう。四三と違うのは、裕福な家庭だったため、お金の苦労はなかったことだろう。

ストックホルム五輪では、監督の大森が病床に伏せ、外国人との体格の差もあり、予選は全て最下位と散々な結果だった。400メートルは棄権者が出たため、本戦出場が決まるが、戦意喪失の弥彦はこれを棄権した。

ベルリン五輪を目指した弥彦と四三は、現地で日本にはないスポーツ用品を買い込み、後の日本のスポーツ発展に貢献する。

大正2年、帰国した弥彦は大学卒業後、横浜正金銀行に入行し、海外勤務を経て横浜本店営業部副支配人へと出世する。以降、スポーツには関わっておらず、昭和18年に退職し、昭和29年2月1日に68歳で死去した。

 

☆三島彌太郎(弥太郎)

三島弥彦の兄。銀行家で三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰(ほととぎす)』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。

1867年5月4日に鹿児島県鹿児島市上之園町)で生まれ、7歳のとき東京神田の小川町学校入学、その後すぐに同人社分校に通い、9歳のとき近藤真琴の塾で学ぶ。13歳のときに山形県師範学校へ入学する。17歳のとき駒場農学校に入学。18歳のとき成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、農政学を学ぶ。

帰国後、1897年、貴族院議員に当選し、最大会派研究会の代表者を務め、鉄道国有化を実現させた。また議員生活の傍ら金融業に深く関与していた。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日第8代日本銀行総裁に就任。日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力した。

1919年(大正8年)急病により現職のまま逝去した。

 

☆三島和歌子

弥彦、彌太郎の母。1845年6月16日、鹿児島県で生まれる。生家である柴山家は身分こそ低い下級藩士だったが、父・権助は兵学者として名高く、藩士の人望を集めていた。和歌子は1人目の夫となる森岡に嫁いだが、森岡家に追い出される形で離縁する。和歌子は森岡との結婚は不本意なものだったため、結果的に良かったのだろう。(不本意の理由には2番めの夫となる三島通庸に恋をしていたという説もある。)離縁された理由としては、和歌子の兄・龍五郎が「寺小屋事件」を起こしたため、森岡家にとばっちりが来ることを恐れたためである。

そして詳しい経緯は不明だが、通庸と結婚した。通庸は警視総監になるまでもなってからも命を狙われることが多く、和歌子は剣術に覚えがあったため、ボディーガードとして側にいたこともあった。通庸は妾もおり、それを知りながらも耐え続けたが、実子も妾の子も平等に愛したという。

通庸の死後は三島家を切り盛りし、息子の結婚や離婚も取り仕切った。小説『不如帰(ほととぎす)』の中では悪どい姑として描かれている。和歌子は抗議したが、出版されたものはどうしようもなく、風評被害に悩む。

大正13年12月3日、79歳で亡くなった。

 

☆吉岡信敬

1885年(明治18年)9月1日生まれ。日本初の応援団長。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。

出生は山口県萩市河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説がある。

1898年(明治31年)、早稲田中学校に入学し、野球部に入部する。選手としてはイマイチだったが、応援活動に対しては熱心で、中学のみならず早稲田大学野球部の試合にも必ず顔を出して応援をしていた。早稲田高等予科生となっていた1905年(明治38年)、橘静二(後に早稲田大学学長・高田早苗の秘書)、吉田淳(後に朝日新聞記者)らと早稲田大学応援隊を結成し、隊長となる。以降、野球を中心に各種スポーツの応援には必ず姿を見せ、応援や場内整理にあたるようになる。この頃から「虎鬚彌次将軍」と呼ばれるようになった。1906年(明治39年)には応援の過熱がもとで早慶戦が中止になり(以後、1925年(大正14年)まで中止は続く)、このことで一部から批判を浴びるも、人気は衰えなかった。

1909年、「天狗倶楽部」に加入。1912年には早稲田大学を中退し、志願兵として麻布第一連隊に入営。除隊後は読売新聞などに勤めた。1940年(昭和15年)12月7日、57歳で死去した。

 

☆中沢臨川

1878年(明治11年)10月28日、長野県伊那郡大草村(現・中川村)に生まれる。文芸評論家であり、電気工学者でもある。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家だった。

旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)在学中に、窪田空穂(後に歌人)、吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つ。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学し、西洋文学に興味を持つようになった。特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。 1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子(家督を継ぐ立場の養子)に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。

1901年(明治34年)、上京し、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)に入学し電気学を専攻した(夫婦で学生生活だった)。その傍ら文学には関わり続け、翌年には窪田、吉江、小山内薫らと同人誌『やまびこ』を創刊する。

大学卒業後、東京電気鉄道会社(都電の前身の一つ)で働き、その後、京浜電気鉄道会社(現・京浜急行電鉄)で技師として働いていると、小説家の押川春浪から、公共の運動場を作れないかと相談を受ける。臨川は上司に掛け合い、羽田の土地1万坪をグラウンドとして提供してもらい、羽田運動場を建設した。ここは京浜電気鉄道会社の運営だったが、臨川自身もかなり出資していた。羽田運動場の建設に伴い「日本運動倶楽部」が発足し、同時にレクリエーションとしてのスポーツを推奨する「天狗倶楽部」も設立された。

なお、1911年(明治44年)に羽田運動場で行われた初のオリンピック予選では、臨川はマラソンの測定を行った。しかし、臨川は実際のコース(25マイル)を測定せず、2万分の1の地図を使い、1町ごとに測定した。これが、四三らが世界記録を出したカラクリだった。

1912年、(大正元年)、トルストイ論が掲載されたことをきっかけに、『中央公論』で多く評論を発表する。1916年には長野へ帰り、会社経営をしながら文芸活動を続け、唯一の小説作品である「嵐の前」を発表した。1919年(大正8年)ごろから酒が原因で健康を害し、1920年(大正9年)8月9日、咽頭結核により死去。

 

☆押川春浪

1876年(明治9年)3月21日、愛媛県温泉郡松山小唐人町(松山市)で生まれる。作家であり、本名は押川方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。

非常に優秀だった春浪は、反面素行が悪く学校を転々とする。明治学院、東北学院、札幌農学校、函館水産講習所を経て、大隈重信の創立した東京専門学校専修英語科入学、ここでは正宗白鳥と親しくした。在学中に冒険小説を執筆していた。1900年(明治33年)に『海島冒険奇譚 海底軍艦』を文武社から出版し人気を得る。母の療養のために鎌倉に移り、翌年鎌倉に越して来た国木田独歩とも親しくした。

1903年(明治36年)に結婚して浅草寺近くに居を構え、一時千葉の館山にも住んだが、後に転々と転居を繰り返した。この頃から過度の飲酒により、徐々に体調を崩すようになってもいた。

1908年(明治41年)に春浪が主筆となる『冒険世界』が刊行され、冒険小説がブームとなる。野球が好きだった春浪は、次第に『冒険世界』誌上でスポーツ振興も大きく取り上げ始め、『運動世界』などのスポーツ誌にも寄稿する。東京運動記者倶楽部にも加入し、吉岡信敬、橋戸信、飛田穂洲らとスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を結成、野球の他相撲、テニスなども楽しんだ。

スポーツのための総合グランドの必要性にも着目し、中沢臨川とともに羽田運動場建設にも関わった。さらに中川らと司法大臣尾崎行雄を会長とする日本運動倶楽部を設立、様々な競技会を開催した。1911年(明治44年)には大日本体育協会と共催でストックホルムオリンピックの予選大会を開催し、日本初のオリンピック選手を送り出した。

かつての5千円札の肖像画でも知られる新渡戸稲造とは、新渡戸が唱った野球害毒論でやり合った。

1913年(大正2年)頃には飲酒による体調悪化で執筆もしばしば中断し、小笠原父島に転地療養した。1914年(大正3年)11月16日、脳膜炎により死去。

 

☆野口源三郎

明治21年8月24日、埼玉県で生まれる。生まれて間もなく母が亡くなったため、母方の親戚に養子に出され、野口姓となる。埼玉師範学校(埼玉大学)を卒業後、一旦教師となるが、運動神経の良さを買われ、東京高等師範学校(筑波大学)へと進学した。校長・嘉納治五郎がマラソンや水泳に力を入れていて、源三郎もマラソンを始め、1つ上の四三と出会う。源三郎は大の甘党で、マラソン中に空腹に耐えられずしばしばレースを抜けていた。明治45年、ストックホルム五輪の予選を勝ち抜き、四三らと共にオリンピックへ。しかし、ここでも空腹に耐えられず、抜け出したため4位に終わる。

大正4年、東京高等師範学校を卒業後、長野県松本中学に赴任した。そこで陸上部を設立し、愛読書「陸上競技の練習法」(著・マーフェー)を元に、指導を行う。また、自身も大正5年には十種競技を開始した。翌年には棒高跳びで3メートルという日本記録を樹立し、3回の極東選手権大会でも優勝している。

大正7年に嘉納治五郎から呼ばれ、東京高等師範学校で働きながら、アントワープ五輪に十種競技で出場する。結果は惨敗だったが、得るものが多かった。そこで大正15年の体育指導要領の改定に尽力した。そして大正13年にはパリ五輪の選手団監督を務めた。

数々の功績が認められ、昭和35年に紫綬褒章、昭和39年に勲三等瑞宝章を受賞。そして昭和42年3月16日死去した。

 

☆美川秀信

玉名中学からの四三の同級生。2人は、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学する。東京高等師範学校での最初の夏休み、四三と秀信は一緒に帰郷する。その途中で、2人は富士山に立ち寄り、登山に挑む。しかし、7合目で登頂を断念し、富士山を下りた。四三は諦めきれず、翌年もチャレンジしている。

東京高等師範学校の2年生の夏休みには、秀信はすでに退学していた。秀信は、予科(1年生)での成績が悪く、本科(2年生以上)へ進む頃には学校に行かなくなっていたのだ。親友を失った四三は残念がったという。

 

☆大森兵蔵

1876年3月14日、岡山県で生まれる。同志社普通校(同志社大学)を中退し、東京の京高等商業学校(一橋大学)に入学するが、ここも中退し、渡米する。バイト先で出会った女性・アニー・シェプリーは兵蔵を痩せて髭があり、イエス・キリストのようだと思ったという。その後、1907年 アニー・シェプリー(日本に帰化した後大森安仁子と改名)と結婚した(安仁子が19歳年上)。1908年 マサチューセッツ州にある国際YMCAトレーニングスクール(現スプリングフィールド大学)を卒業し帰国、東京YMCAでバスケットボール、バレーボールを日本に初めて紹介する。(バスケットボールやバレーボールが普及するのは兵蔵の死後)

兵蔵はアメリカで見聞きしたことを活かし、日本人の体格が小さいのは運動できる環境が少ないことだと訴えた。しかし、YMCA幹部にはこれが伝わらず、YMCAを去る。

1911年 大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその理事となった。1912年 スウェーデンストックホルムオリンピックの日本オリンピック初参加において監督として参加した。しかし、結核を患い、監督どころではなかった。この状況は少なからず、参加していた四三ら選手にもあっただろう。そして、1913年 オリンピックからの帰国途上、肺結核によりカリフォルニア州パサデナで36歳にて死去。

 

☆大森安仁子(アニー・シェプリー)(写真・右)

本名・アニー・バローズ・シュプリー。1856年(日本では安政3年)12月7日、アメリカのミネソタ州で生まれる。シュプリー家は開拓民で、ニューイングランド名門という家柄だった。絵が得意で、身内の不幸にも負けず、画家を目指した。両親や兄弟を亡くし、アメリカのコネチカット州に家を買い、絵画制作に集中しようと、料理人のアルバイトを雇った。そこで現れたのが大森兵蔵だった。住み込みで働くようになった兵蔵だが、実は料理はできず、結局安仁子がすることに。兵蔵は気が引けてアルバイトを辞めると言うが、安仁子は他に仕事はあると言って、留め置いた。次第に2人は惹かれ合い、交際することになる。19歳も年上の安仁子はどこか遠慮がちだったが、1907年(明治40年)無事結婚に至った。この時、名門の家の安仁子が日本人と結婚するということはちょっとした騒動となった。

兵蔵とともに日本にやってきた安仁子は、明治44年、新宿で児童福祉施設「有隣園」を設立した。後に保育園も併設される。そして同年、兵蔵の家族にも認められ、帰化した。

兵蔵がオリンピックに関わるようになり、テーブルマナーや英語を教えた。四三も安仁子に英語を教わっている。日本が初参加のストックホルム五輪では、兵蔵の結核が悪化し、看病に追われた。帰国途中、兵蔵が息を引き取ると、安仁子は故郷へ帰ることもなく、日本で兵蔵がやり残した業務をこなした。安仁子は松田竹千代と出会い、協力して東京に公園を増やそうとしたが、思うように行かず、有隣園に専念した。

有隣園は後ろ盾を失い、安仁子の個人事業となる。そこで安仁子は竹千代に相談し、有隣同士会を組織し、月1円の寄付をしてくれる人を300人集めることに成功する。有隣園は着実に拡大していくが、関東大震災に見舞われ、資金源が無くなり次第に衰退していった。そんな中でも安仁子の功績は認められ、昭和15年の紀元二千六百年記念の社会事業大会で表彰された。翌年8月3日、安仁子は穏やかに息を引き取った。

 

☆黒坂辛作

明治14年兵庫県姫路市に生まれる。21歳で上京し、足袋店「播磨屋(はりまや)」を創業した。この店の裏に東京高等師範学校があった。まだランニングシューズはなく、マラソン選手は普通の足袋を履いて走っていた。播磨屋はその購入先となったのだった。

ストックホルム五輪に出場が決まった四三は、普通の足袋では25マイル持たないと、辛作に改良を頼み、結果、底を三重にした足袋ができた。これが「マラソン足袋」の始まりだった。しかし、舗装された道路や炎天下の道路には向かず、四三は再び改良を依頼した。こうして辛作は四三と共にマラソン足袋の開発に尽力していく。底にゴムを張り、溝をつけた「金栗足袋」は学校では定番となった。

戦後、辛作はマラソン足袋から「こはぜ(金具)」を取り外し、「カナグリシューズ」として売り出す。これが日本初のランニングシューズだった。しかし、ライバル企業のオニツカタイガー(アシックス)やミズノに負けていく。しかしある程度のシェアを保ったままバブルに突入し、不動産経営などに手を出し、業務を停止した。

 

☆永井道明

1869年(明治元年)12月18日、茨城県水戸市で水戸藩士の次男として生まれる。藩士と言っても身分は小役人にすぎず、10人兄弟ということもあり生活は苦しかった。

茨城師範学校に進学した道明は、兵式体操を学び、運動会などでは指揮を任されるほどになる。茨城師範学校卒業後、姉の夫の支援で東京高等師範学校に入学。そこで「日本初の体操教師」と言われる坪井玄道から指導を受ける。東京高等師範学校卒業後は、東京高等師範学校附属中学校の助教諭となる。その一方で麻布の歩兵第一連隊にも入隊した。

明治29年に奈良県の畝傍中学校に赴任し、校長を務める。主に修身と体操を指導し「体操校長」と呼ばれる。明治33年、先輩・小森慶助から打診され姫路中学校に赴任した。

昭和38年、日本の体育教育の混乱を受け、道明は欧米視察に出る。帰国後、明治42年に東京高等師範学校と東京女子高等師範学校の教授となった。その後、嘉納治五郎が設立した大日本体育教会発足にも関わる。以降、「家庭体操」を提唱したり、「学校体操教授要目」を改定したりと日本の体操に深く関わっていく。

 

☆嘉納治五郎

1860年12月10日、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)に生まれる。1870年(明治3年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道・英語などを学んだ。1874年(明治7年)、育英義塾(のちの育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学。優秀だった反面、体力に自信がなく、柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。それでも諦めきれず、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。福田が52歳で亡くなった後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作り、1882年、講道館を設立した。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図した。こうした功績が認められ、 1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される。

嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)からは、通算25年間ほど東京高等師範学校の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校校長を務めた。また、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長も歴任し、旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立や日本女子大学の創立委員にも加わる。一方で文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。1896年には清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、留学生のために1899年に牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。

1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)で講師となり、『哲学館講義録』を棚橋一郎と共著で執筆した。

日本のスポーツの発展にも尽力し、1909年(明治42年)には東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となり、ストックホルム五輪には団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に成功したが、戦争の激化により返上した。

1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日、船内で肺炎により77歳で死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章が贈られた。

 

☆可児徳(かに・いさお)

明治7年11月6日、岐阜県恵那郡苗木町で、苗木藩士・可児吉右衛門の次男として生まれる。徳は小学校卒業後、体操練習所に入所し、普通体操と兵式体操の免許を取る。明治30年、群馬県尋常中学校に赴任し、同年のうちに沖縄県尋常師範学校に助教授として赴任する。

しかし、東京高等師範学校に体操専修科が開設され、明治32年に東京高等師範学校の助教授となった。教鞭の傍ら、夜には官位外国語学校に通い、2年で卒業した。この頃、川瀬元九蔵がスウェーデン体操を、坪井玄道がヨーロッパのスポーツを広めていた。体操の指導方針を巡り、文部省と陸軍省が揉め、調査委員会が発足し、徳は審査員に選ばれるが、収拾がつかない状況だった。永井道明の欧米視察帰国後、審査委員会は仕切り直されたが、徳は審査員から外される。さらに、10年以上助教授を務めているにもかかわらず、帰国後の道明に教授の座を奪われる。

そんな不遇の徳だが、嘉納治五郎とともに、大日本体育協会の設立に尽力した(道明も参加している)。

かねてから、ドイツへの留学を希望していて、大正4年、やっと留学できるかと思いきや、第一次世界大戦が勃発し、アメリカ留学させられた。アメリカの滞在期間が終わり、再びドイツへの留学を申し出るが、文部省からの許可は下りなかった。こうして大正6年、帰国した。翌年、念願の教授に昇進する。しかし道明の「学校体操教授要目」により、スウェーデン体操がメインであって、徳のアメリカでの経験は活かされなかった。このため、徳や嘉納治五郎のスポーツ派は道明らの体操派と対立する。その結果、スポーツ派が勝利し、スウェーデン体操を排除した。

大正10年、徳は教授を退官し、講師として学校に残った。大正12年、国華高等女学校を創設し、理事長兼校長に就任したため、東京高等師範学校を去った。その後、体育界体操学校の副校長や、体育界の会長事務取締役を経て、昭和41年93歳で死去した。

 

☆美濃部りん

5代目古今亭志ん生の妻。型破りな落語家・志ん生を支えた女性。美濃部りんをモデルとした昼ドラ『おりんさん』は、東海テレビ制作・フジテレビ系列で、1983年8月1日 – 9月30日に放送された。この時、りんを演じたのは池波志乃さんで、志乃さんは志ん生の孫にあたる。

 

☆2代目古今亭圓菊(今松)

1928年4月29日生まれ、静岡県出身の落語家。本名は藤原 淑(ふじわら しゅく)。5代目古今亭志ん生の弟子として多くのネタを継承。『いだてん』では「今松」の名で登場する。

体をよじるようなコミカルなしぐさと、「圓菊節」とも言われる口調で人気を集めた。手話落語を創案し、刑務所篤志面接などのボランティア活動も続けていた。3代目古今亭志ん朝亡き後、古今亭一門の総帥となる。2012年10月13日、84歳の時、多臓器不全のため東京都北区の病院で死去。

 

☆4代目橘家圓喬

1865年12月26日、東京都で生まれる。本名は柴田清五郎。

1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。1887年ころに4代目橘家圓喬を襲名し、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加した。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。

一方で、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。しかし、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたこともある。また、5代目三遊亭圓生が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。

1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。

 

☆大隈重信

1838年3月11日、佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄だった。

『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。1855年に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。1856年、佐賀藩蘭学寮に転じ、1861年には鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。1865年、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。また京都と長崎を往来して、尊王派として活動した。徳川慶喜に大政奉還をさせようと企てるが、捕まり、1か月の謹慎処分を受けた 。

明治維新に際し、徴士参与職、外国事務局判事を務めた。1869年からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わる。1872年(明治5年)には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。ウィーン万国博覧会も成功させ、近代博物館の源流を作った。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。

1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。1896年、 第2次松方内閣で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。1898年6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。しかし、4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。

1907年、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

第一次護憲運動をきっかけに政界に復帰した。1914年にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、76歳で、2度目の内閣を組織。1916年10月、内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢。

大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去。

 

☆内田公使

外交官で、各国の公使を経て、1912年、スウェーデン公使として赴任し、ストックホルム五輪で日本人選手をサポートした。

 

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2019年の大河ドラマは、33年ぶりに近現代史を扱う「いだてん~東京オリムピック噺」です。

オリンピック初参加から「オリンピック」開催までの激動の52年間を、描く「東京&オリンピック」の物語。

2020年の東京オリンピックを目前に控えた2019年の大河ドラマにふさわしい題材ですね。

登場人物には実在した人物も多く、明治から大正、昭和へと様々な人の尽力があり、現代のスポーツの繁栄があると気付かされました。また、オリンピックという大舞台にかける選手や主催者側の人々にも複雑な関係性や熱い想いがあったようです。

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