【まんぷく】実在モデルの紹介!日清食品創業者・安藤百福の生涯とそれを彩る人々

2018年度後期の連続テレビ小説は、福田靖さん脚本の『まんぷく』です。

99作目となる『まんぷく』では、ヒロイン・福子を安藤サクラさんが演じます。

今や世界中で年間1000億食近くも人々の口に入るインスタントラーメンをこの世に生み出した日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)氏とその妻・仁子(まさこ)氏の半生をモデルに、戦前から高度経済成長時代にかけての大阪を懸命に生き抜く夫婦の成功物語を描きます。

本記事では、連続テレビ小説『まんぷく』のキャストの実在のモデルについてご紹介します。

 

「まんぷく」のあらすじと期待の声

 

「まんぷく」のあらすじ

 

舞台は戦前の大阪。三人姉妹の末っ子で、貧しいながらも愛情をいっぱい受けておおらかに育ったヒロイン・福子。父を早くに亡くしていたため、家計を支えようと、女学校を卒業した後、ホテルの電話交換手として働くことに。時々失敗しながらも懸命に仕事に励む福子だったが、楽しみにしていたことがあった。それは間近に迫った長女・咲の結婚だった。次女の克子は、早くに結婚して家を出ていたため、宝飾店で働いて女学校に出してくれた咲に恩返しをしたいと、結婚式を華やかに祝うための方法を考えていた福子。そんな時に出会った運命の人が──バイタリティーあふれる発明家・萬平だった。やがて二人は恋に落ち、結婚することになる。
しかし!! 萬平は幻灯機、フードプロセッサー、航空機エンジン部品、製塩、栄養食品、金融など、次から次へと事業を手がけ、大成功したかと思えば大失敗、敗者復活戦の繰り返し。まさかこんな浮き沈みの激しい生活が待っていようとは…!

「世の中の役に立つこと」を理想に前に進み続け、穏やかな生活など考えもしない夫。
武家の末えいで、萬平の理想の実現に理解が乏しく、娘の結婚生活に口を挟み続ける母。
その間に挟まれながら、子どもを育てる福子に必要なのは、究極のマネージメント能力。

初めは夫に振り回され、耐えるだけだった福子は、やがて夫を支え、背中を押し、引っ張っていく強い女になっていく。
そして、すべてを失ったどん底からの最後の敗者復活戦、ついに夫婦は
「インスタントラーメン」を創り出す。それは世界の食文化に革命を起こす大発明だった!

 

「まんぷく」に対するユーザーの期待の声

 

 

 

 

 

 

実在するモデル一覧とキャスト

 

ドラマ モデル キャスト 役柄
立花福子 安藤仁子(まさこ) 安藤サクラ 主人公。萬平の妻
立花萬平 呉百福(安藤百福) 長谷川博己 福子の夫。日清食品創業者
今井鈴 安藤須磨 松坂慶子 福子の母
神部茂 砥上峰次 瀬戸康史 萬平の側近
三田村亮蔵 杉道助 橋爪功 大阪財界の重鎮

 

安藤仁子(あんどうまさこ)について

 

「まんぷく」では立花福子として演じられ、主人公となる。仁子についての文献はほとんど残っておらず、詳細ははっきりしないという。仁子は1917年(大正6年)8月16日、福島県の安藤重信と須磨の間に生まれる。安藤家は代々二本松神社の神主を務める家系であり、福島県の名門だった。

仁子は大阪の全蘭会高等女学校を卒業後、多くの財界人が集まる「大阪クラブ」で受付として働く。そこで、元陸軍中尉の井上の紹介で、7歳上の台湾人実業家・呉百福と出会う。後に百福は、仁子に一目惚れしたことを記している。そして、戦時中である昭和20年に2人は結婚。しかし、戦況が悪化し、一時、兵庫県の上郡に疎開し、終戦を迎える。

終戦後は夫・百福は税金の関係で中国籍を取り、戦争で焼失した事務所などの保険金4000万円(現在の価値では1000億円相当)を受け取り、2人は日本一の大金持ちとなる。しかし、幸せは長くは続かず、百福の逮捕や理事を務めた信用組合の破綻などを経て、無一文になる。子供を2人抱えて、仁子は全財産1000円の時もあった。

しかし、百福の起業意欲は途切れず、仁子はそれを信じじっと耐えた。ある時、揚げ物をしていた仁子の姿からヒントを得た百福は「チキンラーメン」を完成させる。

仁子は2010年(平成22年)に亡くなっている。

 

安藤百福(呉百福)について

 

インスタントラーメンの開発者で、日清食品(株)の創業者である。1910年(明治43年)3月5日、日本統治時代の台湾に生まれる。両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父母に育てられた。幼少期から数字に興味のある子だったという。

1932年に繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立し、事業は大きな成功を収めた。この時、百福は正妻との間に一人の息子がいたが、その2人を台湾に残したまま、第2夫人を連れて来日し、1933年大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立する。(当時、台湾は夫妾婚姻制度が認められていた)この時、メリヤスの他、トウゴマを栽培し、実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛ける実業家となる。1996年、安藤は通っていた立命館大学から「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与される。

第2夫人との間に3人の子供を授かるが、夫人は子供を連れて台湾に戻る。

その後、第2次世界大戦が始まり、百福は軍需工場の経営に携わる。そこで国から支給された資材の横流しに気付き憲兵隊に訴えたが、百福自身に疑いの目が向けられ拷問に遭う。実は、訴えた憲兵の中に、横流ししたであろう人物の親戚がいたのだった。百福は知人の元陸軍将校に助けを求め、解放されたが留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることとなる。

その後、「大阪クラブ」で出会った仁子に一目惚れし、戦時中の1945年に結婚する。終戦直前に兵庫県上郡に疎開するが、終戦後大阪に戻る。そして日本国籍か中国国籍を選ばなければならなかった百福は中国国籍を選んだ。その理由は、日本国籍を取ることで全財産を没収されるかだった。中国国籍を取り、財産を守った百福は、大阪空襲で焼けた工場などの保険金4000万円(現在の価値で1000億円相当)を手にする。

戦後の食糧難の中で百福は食品事業を手掛けようと決意する。1948年、百福は自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げを受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営み「中交総社」(後の日清食品)を設立した。しかし、その直後GHQは中国人への課税を強化し、百福は脱税の容疑をかけられ、有罪判決を受け巣鴨プリズンに収監される。しかし、百福は逆に弁護団を立ち上げ提訴した。世間体や反税運動を懸念した税務署は提訴を取り下げるならば無罪にすると言うが、百福はこれを拒否。妻・仁子の説得にも応じなかったが、2年後仁子と2人の子供が面会から帰る姿を見て、やっと提訴を取り下げ、釈放された。

その後、華僑の頼みで信用組合「大阪華銀」の理事となるが、これが破綻し、全財産を失う。無一文になるが、百福は諦めず、ラーメン屋になると言い出した。そして自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン作りに取り組んだ。百福は「1.おいしくて飽きがこない、2.保存性がある、3.調理に手間がかからない、4.安価である、5.安全で衛生的である」の5要件を満たすものをインスタントラーメンと位置づけた。

試行錯誤の結果、インスタントラーメンの開発は1958年の春にはほぼ完了した。これが「チキンラーメン」である。うどん1玉6円の時代に35円という価格設定は問屋を遠ざけたが、アメリカへ輸出し人気を得たため、初めは輸出という形で利益を得た。それからコマーシャルの効果があり、国内でもヒットし、生産が追いつかないほどになる。そして、三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。

1966年、安藤は視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。そこで誕生するのが「カップヌードル」である。これも「チキンラーメン」同様、初めは敬遠されたが、自動販売機設置が功を奏した。そしてヒットに決定打を打ったのは「あさま山荘事件」。国民が注目する事件の報道に山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、大ヒットとなった。

1974年、食糧庁長官の打診により、「カップライス」を発売するが失敗に終わる。政治家や富裕層には評判は良かったが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなった。30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという百福は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。

1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、1983年(昭和58年)宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した。そして1985年に次男の宏基が社長に就任し再び会長専任となった。

1996年、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は日本経済新聞社の後援の下、食品研究・開発者を対象とした安藤百福賞を主催している。

2002年、「自らが元気なうちに経営を引き継がせたい」という理由から6月29日で代表取締役会長を退任し、「創業者会長」に就任した。

2007年(平成19年)1月5日、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去。享年98(満96歳没)。亡くなる数日前までゴルフをしていたほど、人生を謳歌していた。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と餅入りのチキンラーメンを食べたという。幾度となく立ちはだかる壁に決して負けなかった生涯現役の実業家は、その長い生涯をいきいきと締めくくったのだった。

百福の死後、日清食品は2008年(平成20年)10月1日付で持株会社制に移行し、「日清食品ホールディングス」に商号変更され、同時に新会社として「日清食品(株)」が設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたの機に、次の50年(創立100周年となる2058年)に向けて、企業プロジェクト「百福士(ひゃくふくし)プロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくというものである。

 

安藤須磨について

 

安藤仁子の母で、夫に先立たれてから、女手一つで3姉妹を育て上げる。心配性な性格で、色々と口を出さずにはいられない人物だったという。戦後、須磨は仁子ら夫婦と暮らすことになる。百福が戦争帰りで問題を起こしていた若者を集め、仕事を与えていた時、その母親代わりとして世話をしていた。「チキンラーメン」開発の際には、仁子と共にスープを担当するなど、協力してきた。

百福はインスタントラーメンの製法「瞬間油熱乾燥法」を特許申請する際、須磨の名義で出しているため、資料によっては、インスタントラーメンの開発者とされている。

そして昭和33年から44年まで日清食品に在籍していた。しかし、「まんぷく」ではそのシナリオが見当たらないため、オリジナルに近いキャラクターとして描かれている可能性が高い。

 

砥上峰次について

 

安藤百福の側近中の側近とされている人物。百福が全財産を失い、チキンラーメンを開発する前からそばで百福を支えてきた。日清食品で取締役も務めている。しかし、アメリカ進出のことで東洋水産と揉める。アメリカでのインスタントラーメンの特許を主張する百福は、東洋水産が自社の社員を引き抜いたと言い出し、収集がつかなくなる。東洋水産の社長・森和夫はアメリカで提訴する。しかし、裁判費用の兼ね合いもあり、和解へと進む。その交渉役を担った砥上は、和解に漕ぎ着けるも、その内容は日清食品に不利なものだったため、責任を取る形で百福の元を去る。

 

杉道助について

 

1884年(明治17年)2月20日、山口県に生まれる。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。

1909年に慶應義塾大学理財科を卒業し、「久原鉱業所」(後の日産コンツェルン、現・JXTGホールディングス等)に入社した。翌年、武藤山治の仲人で、大阪・船場の綿糸問屋・八木商店(現・ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。さらに翌年、久原鉱業所は大阪に進出し、その際武藤に繊維の事業を勧められ、繊維工業に関わっていくことになる。小さなタオル工場に始まり、1912年には浪速紡織(現・ダイワボウホールディングス)を任されるまでになった。1910年~1920年代に掛けては大戦景気とその反動で、甚大な損失を被った。杉も例外ではなく自宅を売り、借家を転々とした。

1923年には武藤が政界を革新すべく「実業同志会」を結成し、杉も会員となった。翌年、政界に進出し、実業同士会は武藤をはじめ12人の当選者を出した。その際、杉は幹事長だったが、選挙活動が選挙違反に引っ掛かり、2ヶ月にわたって拘引される。

1929年に大阪商工会議所に入所した。日中戦争が始まると、杉が理財部長や時局対策委員長などを務める会議所も政府の下請機関の機能を負うようになっていった。また、大阪の繊維統制会社「大阪繊維製品配給」の社長にも就任した。一方で、八木商店では1938年に社長、1941年には会長に就任している。

終戦後の1946年には大阪商工会議所第16代会頭に就任し、杉の下で大阪経済の立て直しが始まった。新幹線の新大阪駅の位置を決定、大阪国際空港や地下鉄網の整備、阪神高速道路公団の設立促進などの都市基盤整備や重化学工業化などはその成果だった。

1950年、大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・MBSメディアホールディングス)の社長となる。また、貿易振興を図るために1951年に「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し、理事長となった。さらには戦争で中止になった大阪国際見本市を実現すべく、1952年に「日本国際見本市委員会」が結成され、杉は委員長となると、翌年開催され、成功を収めた。

一方、1956年に鳩山一郎の日ソ国交回復交渉の全権顧問や、1959年に赤間文三の後任として大阪府知事に推挙されるも、辞退している。だが、1961年に第6次日韓会談の政府代表になるなど、1964年に死去するまで精力的に活動を続けた。

1959年に藍綬褒章、1964年11月には関西財界の生存者として前例の無い勲一等瑞宝章を賜り、同年の死に際しては正三位が与えられた。

 

まんぷく実在モデルの紹介!日清食品創業者・安藤百福氏ほかまとめ

 

2018年度後期の朝ドラ『まんぷく』は、日清食品の創始者とその妻・福子がインスタントラーメンを開発するまでの壮絶な半生を描きます。

戦前から高度経済成長時代にかけての激動の時代を、明るくひたむきに生き抜いたヒロインと、バイタリティーあふれる実業家の夫との波乱万丈の物語です。現在の日清食品の礎を築いてきた多くの人々の波乱万丈な人生にも注目です。

物語のヒロイン「福子」と、実業家の夫「萬平」の夫婦の名前を合わせ、食と幸せのシンボル「満腹」という意味と、日本の朝に「福=幸せ」がたくさんあふれますように、という願いも込めて『まんぷく』というタイトルになりました。

本記事では、そんな『まんぷく』に登場する人物の実在のモデルについてご紹介しました。戦中・戦後という厳しい環境を生き抜いた人間力に驚かされます。